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院内で「発掘」された70年前の若月先生の脚本

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    172 院内で「発掘」された70年前の若月先生の脚本

    日経メディカル 2020年9月29日 色平哲郎

    https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202009/567334.html


    連載第3回

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      お世話になっています。きのう連載第3回公表されていたのでした。
      https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74776
      松尾匡


      【転載】コロナ禍の軍縮に逆行する「敵基地攻撃能力」保有論

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        【転載】コロナ禍の軍縮に逆行する「敵基地攻撃能力」保有論
        https://kosugihara.exblog.jp/240527492/

        東京の杉原浩司(武器取引反対ネットワーク:NAJAT)です。
        [転送・転載歓迎/重複失礼]

        本日2020年8月15日は75回目の敗戦記念日ということで、戦争をめぐって
        今一番訴えたいことを書いた文章を転載します。ブログにもアップしまし
        た。短めの文章ですので、ぜひご一読ください。

        これは、公益財団法人日本キリスト教婦人矯風会発行の「k-peace」No.21
        に寄稿したものです。

        水島朝穂さんなども寄稿されており、コンパクトながら中身の濃い特集に
        なっています。1冊297円。お求めは以下からどうぞ。
        http://kyofukai.jp/archives/wpic/k-peace-no-21

        ----------------------

        コロナ禍の軍縮に逆行する「敵基地攻撃能力」保有論

            杉原浩司(武器取引反対ネットワーク[NAJAT]代表)

         6月24日の国家安全保障会議4大臣会合で、「イージス・アショア」の
        配備断念が決定された。配備候補地とされた秋田と山口の住民による粘り
        強い闘いの大きな成果であり、安倍政権が進めてきた米国製高額武器の爆
        買い政策の初めての挫折である。ずさんな調査手法を暴露した「秋田魁新
        報」の果たした役割も特筆すべきだろう。
         配備断念の理由として挙げられた「コストと期間」を考慮するなら、辺
        野古の新基地建設こそ断念すべきであることは言うまでもない。さらには、
        「落下するブースターが住民の命を脅かす恐れ」を考慮するなら、南西諸
        島におけるミサイル基地や弾薬庫の建設もまた断念されて当然だろう。
         見逃せないのは、イージス・アショアの配備というずさんな政策を真摯
        に総括するのではなく、安全保障戦略の見直しの名のもとに、今まで踏み
        込めなかった「敵基地攻撃能力」の保有へと議論を誘導しようとしている
        ことだ。年末に「国家安全保障戦略」の初の改定や防衛大綱・中期防衛力
        整備計画の見直しまでが行われようとしている。この動きの背後には、ア
        メリカのゴーサインがある。米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長
        は2019年11月の読売新聞などで、日本が巡航ミサイルなどに加えてサイバ
        ー・電子戦も含めた攻撃能力を持つべきだと強調していた。
         ここで注意すべきなのは、敵基地攻撃能力の整備が既に始まっているこ
        とだ。安倍政権は表向きは「専守防衛」を掲げてはいる。しかし、今から
        2年半も前の2017年末に、ノルウェーと米国製の長距離巡航ミサイルの導入
        を決定した。計147機の導入が予定されているF35戦闘機と約100機の改修型
        F15戦闘機などに搭載される。さらに、「高速滑空弾」や「極超音速ミサイ
        ル」の開発や現有ミサイルの射程の延長も図っており、8種類もの長距離
        ミサイル保有国になろうとしている。また、相手のレーダーを無力化する
        ことで攻撃しやすくする電子戦機の導入も決められ、2020年度予算に150
        億円が計上されている。

         歯止めなき違憲の大軍拡へ

         では、なし崩しにコソコソと進めてきたことにお墨付きを与えることに
        よって、何が起きるのか。一つは、ミサイルなどのレベルに留まらず、様
        々な領域の武器が導入され、敵基地攻撃能力の総合的な整備が図られるこ
        とだ。
         例えば、「低高度の偵察衛星を数百機配備して、ブーストフェイズ(上
        昇段階)のミサイルを探知すべきだ」「日米共同開発が有力となっている
        F2戦闘機の後継の次期戦闘機に、長距離巡航ミサイルを大量に搭載できる
        "軽爆撃機"の機能を持たせてはどうか」「潜水艦からも発射できるトマホ
        ーク巡航ミサイルを購入すればいい」などの提案が自民党国防族議員や御
        用学者などから挙がっている。先制攻撃能力の保有は、陸海空に加えて、
        宇宙・サイバー・電磁波の領域にもわたる恐れが高い。
         狙われているのは「武器体系にはめてきた専守防衛の枠」を最終的に取
        り払うことだ。それによって、理論的には核兵器以外のあらゆる武器の保
        有が可能となる。際限なき軍拡の扉がいよいよ開き、自衛隊が憲法9条に
        よる制約から解き放たれることになるのだ。これがまかり通れば、憲法9
        条の文言が維持されていることの意味は、ほぼなくなるだろう。
         安倍首相は、任期中の明文改憲が事実上不可能となる中で、今までタブ
        ーだった敵基地攻撃兵器の保有に踏み込み、「攻撃的兵器の不保持」とい
        う平和原則を葬ることを"レガシー"の一つとすることに舵を切ったように
        も思える。
         武器体系の制約を外すことは、周辺国に格好の軍拡の口実を与えること
        になる。東アジアの軍拡競争はさらに加速し、緊張が高まることは必至だ。
        さらに、自衛隊が「矛」を持つことによって、日米共同の軍事作戦計画に
        おける自衛隊の役割がより攻撃的なものとなり、集団的自衛権の行使は当
        然の前提となってしまうだろう。大げさではなく、私たちは崖っぷちに立
        っている。

         コロナ禍で安全保障観の転換を

         ちょっと待ってほしい。新型コロナの襲来は安全保障観の大転換を迫っ
        ているはずだ。世界の市民から、軍事費を医療などのコロナ対策に回せと
        いう声が上がっている。河野太郎防衛大臣ですら、コロナの感染拡大を受
        けて、防衛予算が削減される可能性もあると安倍首相に指摘したと報じら
        れている。韓国の代表的な政策提言NGO「参与連帯」は4月8日の論評で
        「増え続ける国防費を大幅に削減し、新型コロナウイルスの被害克服のた
        めに投入すること」を要求し、「重要なことは、既に溢れかえる最先端の
        武器よりも、良い雇用、しっかりとした社会安全網、持続可能な環境とい
        ったものだ」と強調した。
         日本でもまったく同様だ。私たちNAJATも、フィリピンに防空レーダー
        を輸出する三菱電機に提出した要請書の中で、「気候危機や災害、感染症
        や貧困こそが脅威である」と強調した。こうした目の前の危機に、武器は
        何の役にも立たない。
         ピースボート共同代表の川崎哲さんによれば、日本の新規の武器購入費
        1.1兆円があれば、集中治療室のベッドを15,000床整備し、人工呼吸器を2
        万台そろえ、さらに、看護師7万人と医師1万人の給与をまかなうことがで
        きるという。コロナの第二波、第三波に備えて、今こそ予算の使い道の大
        胆な転換が必要であり、莫大な軍事費を人々の命を守るために振り向ける
        時ではないか。
         東アジアにおける軍拡の連鎖を断ち切り、共通の感染症対策や共同の災
        害救助隊の創設、気候危機に対処するための技術提携などにおいて、国境
        を超えた協力を強めること。そして、軍備管理や軍縮のための枠組みを構
        築すること。憲法9条を持つ日本の政府、自治体、市民が果たすべき役割
        は明確になっているのではないだろうか。
         「敵基地反撃能力」保有の企てを葬り、対抗的な平和保障構想を練り上
        げていくために、市民運動の真価が問われることになる。また、9月末に
        提案される2021年度予算案の概算要求において、軍拡ではなく、医療や社
        会保障、教育や貧困対策へのしっかりとした手当てがなされるかを、厳し
        く監視する必要がある。予算のあり方を根本的に見直し、人々の生存権を
        重視する「新しい政治様式」こそを編み出さなければならないと思う。
         6月21日の朝日歌壇にこんな短歌が載っていた。「今、生きる為にお金
        が要るんです 戦闘機なんか要らないんです」。今問われているのは、飛
        んでくるかどうかもわからないミサイルに備えるふりをするよりも、目の
        前で苦しむ人を助けることを優先するという、当たり前の倫理を回復させ
        ることではないか。(6月26日記)

        ※初出:公益財団法人日本キリスト教婦人矯風会発行「k-peace」No.21


        新自由主義による悲惨な現実を解決できるのは、左派ポピュリズムです

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          講談社新書のサイトの連載第二回が公開されました。
          https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74775
          松尾匡


          連載開始のお知らせ

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            お世話になっています。
            講談社現代新書のウェブサイトで連載が始まりました。6回分原稿を送ってあります。
            https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74582

            松尾匡


            「強欲」企業へのペナルティーは妥当なものか

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              170 「強欲」企業へのペナルティーは妥当なものか

              日経メディカル 2020年7月31日 色平哲郎

              https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202007/566535.html


              貧困撲滅のたたかいの中心にタックス・ジャスティスの理念を

              0

                合田です。

                FBに投稿したものですが、転載します。

                貧困撲滅のたたかいの中心にタックス・ジャスティスの理念をーー国連人権理事会への最終報告書

                 世界は今、パンデミックのただ中にありますが、景気の深刻な後退、気候変動、極端な不平等などを含む
                複合的な危機に直面しており、道標の無い十字路に立たされています。
                  これらの課題に共通する脅威は貧困と極端な不平等の問題です。コロナ・パンデミックは、世界で新たに
                数億人の人々を貧困と失業、生存の危機に追い込んでいます。貧困撲滅のたたかいは今こそ差し迫った課題
                として浮かび上がっています。
                 そんな中、7月7日、国連の「極端な貧困と人権に関する特別報告者」、フィリップ・アルストン氏は6年
                にわたる調査をまとめた「極端な貧困と人権」に関する最終報告書を国連人権理事会に提出しました。
                 アルストン氏はニューヨーク大学教授で、2014年に国連の「極端な貧困と人権に関する特別報告者」に任
                命され、途上国のみならず、米国、英国など先進国を含めた訪問調査を行い、貧困と不平等の実情を調査して
                きました。
                 最終報告書は、貧困と不平等をなくすさまざまな方法のうち、再分配が基本的要素であることを強調してい
                ます。
                  「冷戦終結後、グローバル経済の規模は倍加したが、いまだに世界の半数は一日5.5ドル(約600円)以
                下で暮らしている。世界人口のトップ1%の富裕者は世界の富の45%を所有しているのに対し、50%を占め
                る低所得者の所有する富はわずか1%以下だ。経済成長まかせでは、100年たっても貧困はなくならず、不平
                等はますます拡大する。」
                 最終報告書は、貧困をなくすための政策の中心に、連帯と責任分担のシンボルとして、「税」を置くべきこ
                とを強調しています。
                  「低税収は政府の再分配政策の足を引っ張っている。法人税率は平均で40.38%(1980年)から24.18%
                (2019年)に引き下げられ、多国籍企業は利益の約40%をタックスヘイブンに移転している(2015年)。
                財源がないというが、それは税逃れを放置し、財政政策を正しく運用していない口実だ。」
                  報告書は貧困と不平等と取り組むうえで、タックス・ジャスティスの思考がもっとも重要であることを
                強調しています。
                 「ソーシャル・ジャスティス(社会正義)は財政システムに最もよく反映する。公正で平等な税の改革は、
                すべての人のための幸福を尊重し、増進する社会の基礎を提供する。」
                  最終報告は6年間の貧困調査の結論として、貧困を撲滅し、不平等と闘う新しいアプローチの中心観念と
                して、タックス・ジャスティスの考えを取り入れることを主張しています。  (2020.7.8 合田 寛)


                飛田「極私的 阪神淡路大震災の記録」」

                0

                  神戸学生青年センターの飛田雄一です。複数のメーリングリストに投稿します。重複して受け取られる方には申し訳ありません。「極私的 ベ平連神戸事件顛末
                  の記」に続いて、こんなのを書きました。全文をメールに貼り付けるのはやりすぎなので、途中を省略しています。全文は、Facebook 
                  http://www.facebook.com/yuichi.hida.56
                  または、ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ 
                  http://blog.goo.ne.jp/hidayuichi/
                  でご覧いただけます。印刷物の必要な方には無料でお送りします。飛田
                  hida@ksyc.jpまでご連絡ください。

                  -------------------------------------------------------------
                  飛田雄一
                  「コロナ自粛エッセイ(その二)
                   極私的 阪神淡路大震災の記録」

                  ●一

                   その朝、私は、ねぼけていた。火曜日で私の休みの日、前日、むくげの会淡路での一泊二日合宿から帰ってきたのだ。だいぶ遅かった。
                   まだ、明石海峡大橋はできていなかった。フェリーだった。その工事中の明石海峡大橋は地震で橋脚が一メートル?ずれたという。設計を修正してその後無事完成している。
                  神戸は地震がないところとして有名?だった。一九九〇年ごろか、東京に出張中に地震があった。震度四ぐらいだったと思う。私は大騒ぎしたが、東京の人は平然としていた。
                   一九九五年一月一七日早朝午前五時四六分、地震がきた。ちょうど、数日前にテレビでみた怪獣映画を、その瞬間にみた。アメリカの砂漠に大きなタコ?の怪獣がきた。地下にもぐりこんで住みだした。パニックだ。地上に動くものがあると、足?を伸ばして捕まえ地下にひきずりこむ。住民たちは屋根にのぼり、動かないようにじっとしている。が、少し動いたとき、足がのびてきてやられるのである。
                   地震で揺れたとき、私はまさにその場面だった。怪獣の足が私の体に巻きつき、私を地下にひっぱったのだ。私の足が地面に引き込まれる。砂漠だから砂地で、するっとはいる。もう少しで頭が砂のなかに沈んでしまうというときに目がさめた。二、三〇秒間ゆれた間にこんな夢を見たのだ。地震はちょうど、私の寝ている方向にゆれたようだ。それで足から地面に吸い込まれるように思ったのだろう。
                   これまで経験したことのない大きな地震だ。外震源地はここだ、この鶴甲団地だと思った。はまだ暗い。連れあい、娘は無事だ。物もそんなに落ちてないようだ。ふとんの中でしばらくじっとしていた。
                   明るくなって、神戸学生青年センターに降りていくことにした。私の住む団地から歩いて三〇分ほどくだると阪急六甲駅、センターはその近くだ。
                   センターに着いた。あたりのブロック塀は、ことごとく倒れている。団地ではそんなことはなかった。犬の散歩をしていた人を見かけたぐらいだ。
                   センターの外では、管理人の中国人留学生家族(夫婦と子ども二人)が、毛布にくるまってがたがたとふるえている。いっしょに中に入った。事務所のドアはあいた。あけるとパソコンラックやテレビがドアの近くまできている。どちらもキャスターがついている。これがよかった。キャスターがついているので、倒れずに移動したのだろう。でも作動するか、心配だ。
                   センター内にある共同事務室にいった。ドアが開かない。中で物が倒れているようだ。求める会(正式名は「食品公害を追放し安全な食べものを求める会」、長い‥‥)やむくげの会が入っている。(後日あけた。ごちゃごちゃだが何とか大丈夫)。向かいの部屋は第二事務室、ドアはOK。けっこう大きな移動本棚と印刷機がある。移動本棚はしなやか?で、無事だった。大きく揺れただろうが倒れていない。本もほとんど落ちていない。印刷機も大丈夫のようだ。こちらは重くって頑丈、倒れる心配はないということか。
                   この第二事務室の壁の傷は、今もメモリアルとして残している。壁に亀裂がはいっているのだ。他のホール、会議室の壁にも一部亀裂があったが、それらは営業上修理をしたのである。第二事務室は一般のお客様がはいらないところなので、そのままでいいや、ということになった。いまでもこの亀裂をお見せすることがあるが、この亀裂でもびっくりされる。一瞬にこのような亀裂が入ったのだから、やはり恐ろしいものだ。
                   
                  ●二

                   センター内をひとまわりしたあと、少し片づけてから家にもどった。お腹がへったのだ。電気、ガスは止まっているが、何か食べた。
                   娘が、学校はあるのだろうか、という。ないない、学校行く必要はないから阪急六甲、JR六甲道あたりを見に行ったほうがいい、そのあたりに友だちもいるだろうからと言った。そうしたようだ。
                   私はまたセンターに向かった。途中、当時市会議員の井上力さんと六甲台団地あたりであった。オートバイで団地に上がってきている。すでにだいぶ、市内をみてまわったようだ。「通電火災」が起こっているという。おそらくせっかちな住民が、早く電気を通してくれと電気会社に要求したのだろう。そして電源を入れると、物に埋まっていた電気製品から火がでたのだろう。六甲道あたりをみると、すでに三、四か所から煙があがっている。でも、消防車のサイレンは聞こえない。
                   センターに着き、こんどは少し本格的にかたづけをした。個人の家の電話が使えないが、センターの公衆電話ならつながるのではないかと近所の人が来た。もちろんOK(確かに公衆電話は比較的つながった)。公衆電話の前に一〇円玉をおいておくと、けっこうなくなった。
                   実は、震災当日の電話、直後はかかっていた。最初の電話は沖縄の友人からだった。韓国からもかかってきた。NTTが近距離の電話回線を制限していたようだ。東京にもつながらないので、沖縄の友人に東京への電話をたのんだこともある。逆にセンター近辺の友人とは電話がつながらない。歩いて消息を確かめたりした。電話が普通にかかるようになるのに、二、三日かかったような気がする。
                   電話関係の後日談がある。センターには一月二〇日ごろから被災した留学生がきていた。少しおちつくとみんな祖国に電話がしたいという。あたりまえだ。NTTとかけあった。センターは留学生が避難してきており国際電話がしたい、無料にしてほしい。しばらくしてOKとなった。私も韓国の友人にだいぶ?、電話をかけさせてもらった。二月に入ってのちに述べるように、被災留学生に三万円の「生活一時金」を支給したが、彼ら彼女らは三万円をセンターで受け取り祖国に電話もかけた。支援物資の食料、衣料品を受けとり、ときには自転車もゲットして帰った。よかった。
                   夕方になってセンターから南方面にでかけた。阪急六甲南西二〇〇メートルほどの六甲小学校に行った。すでに多くの被災者がいた。この小学校は同年八月、小学校避難所を閉鎖すると神戸市が言ったとき、残されていた被災者が市内で一番多い小学校だった。近辺の木造住宅はことごとく倒壊している。揺れの方向によるのか、北側に倒れている。小学校から西へ三〇〇メートル、将軍郵便局まできた。すぐ近くに最後の学生時代と卒業後、結婚して青谷に移るまで、三、四年ほど住んでいたアパートがある。が、それが分からない。一面、瓦礫の山となっている。あの親切だった大家さんはどうしたのだろうか、無事だったのだろうかと思う(無事でした)。
                   さらに南下してJRまで行った。六甲道から西へ二〇〇メートルほどのところ、JRの線路の下を道路がくぐっているあたりまできた。木造住宅の地域で、まともに立っている家はひとつもない。二、三〇軒の家があったと思われるところに、四、五か所、野花をさした牛乳瓶と年賀状の束がおいてある。ここで、この方々が亡くなったのだ。救出しようとしたができず、遺体が運び出されたあと、友人がその花と瓦礫に埋まっていた年賀状を供えたのだろうと想像した。
                   そのすぐ近くのJRの橋脚をみて、びっくりした。いつもは地面から七、八メートル上にある線路部分が、すぐ目の前にあるのだ。三、四メートル沈んでいる。それも壊れているのではなく、砂地にすっと入ったような状態だ。全身の力が抜けてしまった。神戸市東部のJRは同じような状態だったと聞いた。住吉あたりで、前日まで自転車で線路部分の下を通過できたが、次の日には更に沈んでいて、通れなくなったという話も聞いた。六甲道駅はすでにフェンスがはられていて、その中の様子を見ることができなかった。JRの駅のなかでもっとも被害の大きかった駅のひとつだ。開通も一番遅く、開通したのはその年の7月ごろだったと思う。

                  ●三〜●七 (省略)

                  ●八 

                   その年の夏ごろ?、神戸市内もそれなりにおちついてきた。会議があって長田に出かけた。JRがまだ不通だったのでオートバイでいった。愛知の国際交流団体が支援物資として届けてくれたものだ。それは最初神戸市に寄付を打診したが、二、三〇台では少なすぎると断られて、学生センターにまわってきたものだ。その一台を使っていた。
                   久しぶりに会うメンバーもいて、会議のあとビールも飲んだ。そして帰路についた。湊川で検問にひっかかった。それまで無法地帯?だったのに‥‥。仕方ない。そして例の風船(アルコール検知器です)を吹くと、でない。警官は、検出されません、お酒を飲んでいるようですからさましてから帰ってください、という。そのとおりした。湊川公園で一時間?ほど休んでから、またオートバイに乗った。
                   それがいけなかった。北野町で、また検問にひっかかった。今度はアルコールが検出された。きっちり反則切符を切られた。しかたがない。悪いのは私だ。
                  飲酒後はすぐにアルコールが検出されないらしい。アルコール分が体内にめぐるのにそれなりの時間が必要なようだ。だから、湊川では検出されなかったが、北野町で検出されたのだ。湊川での警官の指示をまもらずに即帰っていれば、まだアルコールが十分体内をめぐることなく、北野町でも検出されなかったかもしれない。残念だ。
                   後日、交通裁判所に出頭した。Aさんにあった。地震後、ボランティアとして神戸にかけつけた人だ。現在もこの地で活動している友人だ。おたがいにここで会ったことは内緒にしておこう、と約束した。私はその約束を、いまも守っている。

                  ■あとがき

                   この冊子は「コロナ自粛エッセイ」の二冊目です。「極私的 ベ平連神戸事件顛末の記」(二〇二〇年七月一日)に続くものです。自粛生活はだいたい卒業しているが、勢いにのって?、つくりました。
                   阪神淡路大震災から二五年がすぎましたが、書き始めるといろんなことを思い出します。震災の年には、いろんなことがあり、いろんな人と会いました。その一年で一〇年分の新しい人と出会ったような気がします。神戸市内にもこんな人がいたのか、これまでなぜ出会っていなかったのかという人もいました。全国から支援にかけつけてきた人々もそうです。そんな出会いも書きとめておきたいとおもいますが、自粛、しました。この冊子はすでにエッセイにしては分量が多すぎます。「極私的」な内容を中心に書きました。
                   私はもともと、なんとなかなるさ派でしたが、震災で更にそのようになりました。いろんな人に、いろんな時に助けていただきました。震災の年のセンターニュースにかきましたが、「世の中捨てたものじゃない」でした。
                   昨年七月、『阪神淡路大震災、そのとき、外国人は?』(神戸学生青年センター出版部)を出しました。B五版六〇頁の冊子です。そこにセンターニュースも含めて震災当時にかいたものなどを集めました。帳合ホッチキスまで自動でしてくれるもセンターの印刷機で作っています。一部からでも増刷可、四一〇円(送料込)です。この値段は、八二円切手四枚分でしたが、郵便料金値上げで八四円になりました。八二〇円に価格改定すれば具合がいいのですが‥‥。その辺は適当に切手を送ってくだされば冊子を送ります。
                  最後は宣伝になってしまいましたが、このエッセイシリーズ、まだ続くかもしれません。そのときは、またよろしく・・・

                  二〇二〇年七月一日                飛田雄一

                  著者 飛田雄一(ひだ ゆういち)
                  一九五〇年神戸市生まれ。神戸学生青年センター理事長、むくげの会会員など。著書に『日帝下の朝鮮農民運動』(未来社、一九九一年九月)、『現場を歩く 現場を綴る―日本・コリア・キリスト教―』(かんよう出版 二〇一六年六月)、『心に刻み、石に刻む―在日コリアンと私―』(三一書房、二〇一六年一一月)、『旅行作家な気分―コリア・中国から中央アジアへの旅―』(合同出版、二〇一七年一月)、『再論 朝鮮人強制連行』(三一書房、二〇一八年一一月)、『時事エッセイ―コリア・コリアン・イルボン(日本)―』(むくげの会、二〇一九年五月)、『阪神淡路大震災、そのとき、外国人は?』(神戸学生青年センター出版部、二〇一九年七月)ほか。

                  <奥付>
                  コロナ自粛エッセイ(その二)
                  極私的 阪神淡路大震災の記録
                  二〇二〇年七月五日発行
                  著者・発行者 飛田雄一 hida@ksyc.jp
                  神戸市灘区鶴甲四丁目三の一八の二〇五

                  ---------------------------------------------
                  飛田雄一  HIDA Yuichi    神戸学生青年センター 
                  http://ksyc.jp  hida@ksyc.jp
                  Kobe Student Youth Center
                  〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1
                  3-1-1Yamada-cho, Nada-ku, Kobe ,657-0064 JAPAN
                  TEL +81-78-851-2760 FAX +81-78-821-5878
                  hidablog  http://blog.goo.ne.jp/hidayuichi/
                  Facebook http://www.facebook.com/yuichi.hida.56


                  目の前の古びた病院に世界的な偉人がいた

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                    169 目の前の古びた病院に世界的な偉人がいた

                    日経メディカル 2020年6月29日 色平哲郎

                    https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/blog/irohira/202006/566173.html


                    飛田「極私的 ベ平連神戸事件顛末の記」

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                      飛田です。コロナウイルスにまけずに?、エッセイを書きました。ご笑覧ください。長文です。ご注意ください。A5版、18頁の冊子です。冊子を必要なかたにはさしあげます。無料です。飛田hida@ksyc.jpまで連絡ください。
                      https://ksyc.jp/mukuge/hida-beheiren.pdf

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                      飛田雄一
                      コロナ自粛エッセイ
                      極私的 ベ平連神戸事件顛末の記
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                      ●一

                       ベ平連の少年Aらが六甲道踏切で米軍の武器輸送に反対して無届デモをして逮捕された。これが一九七〇年秋の新聞記事、この少年Aが私だ。二〇歳までの少年は、新聞によほどの凶悪犯でないかぎり?、実名がでないようになっているのだ。
                       実はこれをテーマに小説を書こうと思った。が、小説はフィクションでなければならず?、小心な私はそれができそうにない。で、実話的エッセイとして書くことにした。エッセイにしては長文になるかもしれないが、おつきあい願いたい。
                       また一方で、母・溢子(いつこ)を主人公にして小説を書きたいと考えたこともある。昨年出版された石塚明子(筆名・大西明子)さんの小説『神戸モダンの女』(編集工房ノア、二〇一九年八月)に刺激を受けたのだ。一九二四年生まれの母は、キャリアウーマンのはしりで、私が小学中学高校と進むにつれて、たびたび「ただものではない」ことを知ることになる母であった。今回のテーマである私の逮捕事件で身元引き受けに来てくれたのも母だった。そしてそのたびに、「あんたは悪くない、悪いのは警察だ」といっていたのである。なぜか父は一度も来なかった。
                       母に比べれば存在感のうすい父・道夫についても、私は年をとるにつれて、いろんなことが理解できるようになった。私が大学に入ったころ、父は働いていた印刷会社が傾きかけて退職した。家庭教師をけっこうして稼いでいた私は、父に小遣いを渡したりしていた。パチンコでたばこを景品にもらってプレゼントしたこともある。たばこをゲットするくらいのパチンコは、けっこううまくいくのだった。父は、孫(私の姉の子)の世話を契機に再び社会デビューし、マンションの理事長をしたりした。また私の市民運動のあて名書きもしてくれた。さらに長年私にかわって新聞切り抜きをしてくれたが、その新聞スクラップは今も青丘文庫(神戸市立中央図書館内)に保管されている。
                       母が一冊だけ作った絵本『だめはなこのはなし』(二〇〇四年五月)を姉と出版した。絵は、当時母が園長をしていた幼稚園の先生が描いてくれた。父の句集(一九九五年七月)も出した。父は、NHK俳句雑誌の表紙を飾ったことが自慢だった。ふたりとも本を出してからしばらくして亡くなった。本を出したことが、よかったのか、悪かったのか分からない。
                       両親のことをこのように書き始めたらきりがないので、ここでその話はやめる。

                      ●二

                       私は一九六九年四月に神戸大学農学部に入学した。その年は全国の大学で学園闘争が盛んであった時だ。大学はバリケード封鎖されていて授業はない。でも「クラス討論会」が毎日のようにあり、私も参加していた。バリケードの中である。そして、大学内に事務所がある「ベ平連神戸」の事務室に出入りしていた。いりびたっていたというほうが正しいかもしれない。母は、「ゆうさん(私のこと)は農学部ではなくべ平連学部に入った」といっていた。
                       私が逮捕されたのはその年の秋、米軍の弾薬列車輸送阻止のためにデモだった。阻止といってもJR六甲道の踏切あたりで抗議のデモンストレーションをするだけである(当時は国鉄、民営化される以前だが以降JRとする)。大学で同級生をさそいベ平連神戸のメンバーとあわせて三〇名ぐらいが、デモをしながら阪急六甲をとおりJR六甲道まで行った。
                       列車がきた。実はその列車がほんとうにその列車かどうか分からないが、線路内をジグザグデモ的に行ったり来たりした。警報機が鳴り始めた。私たちは、列車にひかれても阻止するのだ、というような覚悟はない。でも警報機がなってすぐに出ていくのはカッコわるいから、もう少しうろうろしてから遮断機を少し持ち上げて外にでた。そして逮捕された。先頭にいた私を含めて七、八人、灘警察
                      署に連れていかれた。もちろんパトカーに乗ってだ。当時、JR六甲道付近は高架になっていなかった。高架になっていたらデモもできないし、逮捕もなかったはずだ。少し残念だ。
                       警察での取り調べは過酷、ということはなかった。外では仲間が「不当逮捕糾弾!」とがんばっている。その声もよく聞こえる。取り調べが始まる。私は初体験だったが、けっこう落ちついていた。最初に「弁解録」というのを作る。これは予習していなかったので、すこし面くらったが適当にすませた。
                       そしていよいよ本格的な取り調べが始まる。当時の活動家のあいだでは完黙、すなわち完全黙秘が原則だったが、私はちがっていた。名前、はい○○、住所、はい〇○、という風に進んだ。そして、本籍は?という問いに、黙秘しますと返事した。警官は少しびっくりしていた。ここまで素直に話していたのにここで黙秘とはなんだ、ということだろう。実際、名前住所を言ったのだから本籍も言っていいんじゃないと言っていた。私もそういう気がしたが、きりがないのでここでストップして、黙秘。何回も聞かれるが黙秘。私はこれ以降すべて黙秘なので調書にそのように書いてよと言ったが、それはだめらしい。
                       そのあと延々と、どこから出発したのか、どの道を通ったか、誰の指示なのかなどなどいっぱい聞く。だから調書はけっこう長い。質問、黙秘します、質問、黙秘します、と続く。
                       一日目が終わった。灘警察署地下の留置所に移動する。夕方、また仲間がやってきてシュプレヒコールをする。よく聞こえる。地下といっても半地下で、明かりは入るし、外の声もよく聞こえる。

                      ●三

                       翌日も取り調べだ。朝から同じことの繰り返しだ。名前、飛田、住所、○○、以下黙秘でいいのだが、いちいちこの質問、回答をそのまま書くのでまた長い調書ができる。親しくなった刑事がデモの写真を見せながら(けっこうたくさん写真をとっている)、これは誰だ、これは誰だと聞いてくる。刑事がかわいそうなので?、いっしょに逮捕された友だちの名前だけ言ってあげた。その後列の人は、知りません、そのとなりは、知りませんとまた調書が続く。
                       その日、弁護士が接見に来てくれた。「神戸市民救援連絡会」の電話番号を警察に伝えてあったのだ。事務所は代表の加瀬都貴子さんのご自宅で、その電話番号は暗記していた。どういうわけかいまでも覚えている。最近のことはすぐ忘れるのに・・・
                       もうひとつ、取り調べ中に親子丼を食べた。自費だ。お金はある。差し入れられたものだ。留置所では食べることはできないが、取り調べ室ではなんでも?、注文して食べられるのだ。指定業者がある。おいしかった。
                       留置所で私は独房だった。主犯とみなされたようだ。他のメンバーは四、五人部屋だ。そこでは、先輩の窃盗犯らと紙の将棋をしたという。若いのでかわいがられたらしい。私はいっしょに将棋ができなかったことを残念に思っている。
                       反対側の部屋には神戸大学全共闘の有名な中核派の活動家が入っていた。「ベ平連なら街で反戦歌などの歌うのだろう、歌ってくれ」と言ってきた。が、歌わなかった。恥ずかしかったし、歌って看守にどつかれたりしたら痛い。
                       留置所に入る前、私は、トイレは別の場所にあるのだろうと思っていた。が、ちがっていた。部屋の中にあるのだ。あるといっても隅に便器があるだけだ。したがって気分転換に房外に移動するということもない。食事は、健康食だ。白米に麦が少しまぜてある。ただ量が足りなかった。不足分は取り調べ中に出前をたのんで補った。
                       独房なので、ひとりでなにをやっても自由、ということではなかった。基本的に静かにじっとしていなくてならないのである。ドアと食事を差し入れる部分以外は鉄格子状になっている。看守は見まわりにきたら、いつでも中の私の様子をみることができる。その鉄格子にへばりつくようにして留置所の入口付近をみると看守がいる。でも看守がそこから私の部屋のなかをいつも見ることができるわけではない。
                       私は中高の六年間、器械体操をしていた。そこそこの選手だったのである。狭いところでも腕立て伏せ、倒立、腹筋、背筋、スクワット、なんでもできる。ずっとしていた。むかしは「自然倒立」といっていたが、勢いをつけずに力だけで倒立するのがある。それをいちばんしていた。片手を横腹につけて全体重を支えるという、サーカスのようなポーズもしていた。看守が見に来た時には適当にごまかした。

                      ●四

                       警察には三泊四日いた。どういうわけか、浪人組で、すでに成人となっていた仲間は二泊三日だった。三日目にその成人を留置所で見送った。友人は「ほんなら、おさきに」と言って出て行った。記憶が定かではないが、その友人が「この手錠いらんようになったから飛田にはめとく」といって実際にはめられたことがあったような気もするので、検察庁へ行くパトカーの中だったかもしれない。
                       三日目は検察庁。警察と検察は別組織だが、変わった印象はなかった。そして四日目、最後は家庭裁判所だ。少年の場合、最後にここに来るので一泊多くなるらしい。
                       その家庭裁判所は、私の卒業した湊中学のとなりにあった。手錠をかけられたまま母校のそばに行くのは抵抗があった。運動場から生徒の声も聞こえてくる。卒業してまだ三、四年、中学校から知っている先生が、あるいは付近の商店から知り合いが出てこないかきょろきょろしていた。家裁もそれなりに終わり釈放された。そして起訴されたのか、されなかったのか、通知はない。あれから五〇年、いまだにない。もちろん「時効」があるははずだが、いつでも起訴できるんだぞというおどし、担保を長い間残しておきたいという魂胆があるのだろうと推察する。
                       釈放のとき、身元保証人の母がきてくれた。ほとんど記憶がないが、家裁から自宅にもどったのか、あるいはベ平連神戸の事務所に直行したかもしれない。
                       この三泊四日、すでに書いたようにそれなりの生活をしたが、ただひとつ印象的なことがある。それは、「思考停止」だ。忙しいベ平連生活を送っていた私は、拘束され時間ができたので、いろんなことをゆっくり自由に考える時間ができたと思った。が、ちがった。普通の思考的なことが思い浮かばないのだ。この状態を文字で表現するのはむつかしい。このあたりが、私が小説を書けない理由かもしれない。
                       気が滅入ってしまったというのではない。うつ的になったわけでもない。少しも、なにも思い浮かばないだけなのだ。もうすぐ雪が降るスキーに行きたいな、彼女はどうしているのかな(そのときは誰かな?)、次号の「アンポ神戸」はどうなるかななど、普通のことが考えつかないのだ。頭が真っ白という状況でもない。三泊四日でなくて、二、三〇日拘束されるとそれが日常的となり、普通にも
                      のを考えられるようになるのだと思う。かといって、私はもっと長いこといたかったということではない。

                      ●五

                       ベ平連神戸の主な活動の場所は、三宮花時計前。毎週土曜日午後、そこに陣どって集会を開いた。主にリーダーの西信夫さんが演説をして、私もときどきした。最初のころはサンチカで、新宿「フォークゲリラ」スタイルで集会をしていたが、地上に追い出されたのだ。地上の世界では花時計前、そしてより人通りの多い三宮センター街入口だ。露天商の人たちとも顔なじみとなり、カンパしてもらったこともある。
                       そして月に一回程度はデモをしていた。コースは花時計北上、生田新道西進、鯉川筋南下、三宮センター街東進、そして花時計前だ。デモ届けのたびにそのように書いたので、いまでもすらすら出てくる。
                       警察へのデモ届は、簡単なようでむつかしい。最初は西さんが申請していたが、ある時期から私がするようになった。警察はデモ届にきた新人に、いじわるをするのである。
                       花時計で集会をするのか?、します、では神戸市に集会許可をもらうように。
                       そして神戸市に行く、なかなか許可をくれない。でも集会許可は必要なのである。集会許可がないと「無届集会」ということになり、それだけでややこしい問題となる。けっきょく、あとで神戸市に集会許可をもらいますからと、集会申請、デモ申請を同時にするのが正解なのだ。
                       三宮センター街入口でアピール活動をしているときも、集会申請をしろと言ってくることもあった。しかし、集会申請なしで、無届集会を貫徹した。貫徹という言葉が、当時はやっていた。

                      ●六

                       実はその後も二度、逮捕された。二回ともビラはりだ。一回目は垂水区の自宅近くで「多聞台べ平連」のビラを電柱に貼っていてつかまった。一九七〇年のことだったと思う。ベ平連は自由な「組織」で、ひとりでベ平連を作ることができたのである。そのときの行き先は垂水警察署だ。取り調べはほぼ前と同じで、「住所不定無職拘留」だけは避けた。深夜、また母が迎えに来てくれた。自宅からそう遠くはない。タクシーで帰ったと思う。
                       その次は、神戸駅前。一九七四年七月の参議院選挙で三里塚反対同盟の戸村一作さんが立候補したときだ。公示日が七月七日、早朝からのビラはりだ。選挙なので大きめのポスターだ。私の担当はJR神戸駅周辺、TさんとOさんの三人組だ。最初から尾行されていたようで、けっこう早くつかまった。こんどは生田署だ。生田署は私がデモ申請に何度も行ったことのあるところで、公安担当の刑事とも知り合いだ。
                       例によって、名前住所はすらすらと陳述し、あとは黙秘だ。しばらくして刑事がきて、TさんOさんが完黙して困っている? という。私はふたりに会わせてほしいといった。会った。警察署内で三人だけで、許可を得て会ったようだ。名前住所を言ってあと黙秘で行こうと提案、ふたりはそれを了解してそのとおり陳述した。そしてその日のうちに三名とも釈放となった。この時はもう成人だった
                      ので、母は来る必要がなかったかもしれない。ビラはりで捕まった二回も起訴されなかった。といってもその通知を受け取ったわけでもない。

                      ●七

                       逮捕関連で苦い経験がある。一九六九年七月一二日、高倉山(神戸市須磨区)での神戸大学全学集会でのことだ。これは大学当局の肝いりで封鎖解除を学生に決議させるために開かれたものだ。現在は高倉台団地となっているところで、当時はそこで機動隊がデモ鎮圧の訓練をしていた。その訓練の延長線上に?、集会が実施されたのだ。
                       もちろん全共闘グループは集会粉砕のためそこに向かった。神戸大学から阪急六甲、そして山陽電車須磨寺駅から会場に向かった。その間はすべてデモ行進だ。先に書いたように、授業がなくても盛んにクラス討論会を開いていたわれらが農学部園芸科のメンバーも参加した。四〇名ほどのクラスで半分くらい参加したのではないかと思う。すごい出席率だ。
                       集会粉砕のために集まった全共闘グループは、千名ほどか。この時期の神戸大学闘争では最大の規模だ。でも他大学の学生も入っていた。私自身も関西学院大学でのデモに参加したこともある。もちつもたれつなのだ。
                       デモ隊は、授業再開を期待する学生たちの集団に突入して(乱闘したりしていません)、デモ行進をくりかえした。が、日頃の訓練でその場所を知り尽くしている機動隊員に追いつめられて広場の隅まで来た。一方は崖、高さは一〇メートルほどあったと思う。下のほうには小さな池状の水たまりもある。絶対絶命だ。そこに機動隊が突進してきた。われわれの集団がばらける。崖を飛び降りるか、機動隊の間をくぐりぬけて逃げるかである。私はくぐりぬける派だった。園芸農学科グループのうち七、八人がそのグループの中にいた。身をかわしながら逃げる。SとKが転んだ。助ける?余裕はない。
                       Sはどうなった、Kはどうなったなどと数人のメンバーで話ながら、事前に決めていた行動終了後の集合場所に向かった。山陽電車板宿駅の餃子の「眠眠」だ。SもKもいた。ふたりが逮捕されていたら、転んだのを見ながら逃げた自分を恥じていたかもしれない。なにしろ元器械体操部、身のこなしはすぐれている、転んだ人を飛び越えて、容易に逃げることができたのである。
                       ついでに思い出したが、授業がなくても農学部の先輩たちは「新歓」を開いてくれた。新入生歓迎会だ。会場は、神戸大学六甲台学舎の庭、夜景がきれいなところだ。乾杯ののち(これも未成年がいて今では無理?)、新入生の自己紹介が始まる。〇○県〇○高校出身、○○部でした、神戸大学にあこがれてきましたという感じだ。その年は、東京大学の学園闘争で入試が行われなかった年だ。家が貧乏で浪人ができないので、東大をあきらめ仕方なく神戸大学に来ました、という新入生が複数名いた。いいたい放題だ。
                       私の番がきた。兵庫高校卒業、器械体操部でした。普通はそのあとで先輩が、現役か浪人かと聞くのである。私は、現役だ。が、A先輩は、「君は何浪だ?」と聞いたのである。当時の私が老け顔をしていたのかもしれないがひどい、傷ついた。そのA先輩の顔と名前は、いまでも覚えている。

                      ●八

                       時代は下がって(上がって?)、一九九六年四月。阪神淡路大震災の翌年、神戸で「ニューヨークの中国人画家が描いた南京大虐殺の絵」展覧会を開いた。会場は王子ギャラリー、現在は神戸市文学館となっている建物で、もとはその地にあった関西学院大学の図書館だった。となりに当時、神戸YWCA会館もあり、中国から招いた幸存者(中国で災いから生きのびた生存者をこう表現する)の証言集会もそこで開催した。大規模な展覧会で成功を収めた。丸木夫妻の四メートル×八メートルという巨大な「南京大虐殺の図」もあわせて展示した。
                       右翼の妨害もあった。集会場のYWCAにやってきて、うそつくな、中に入れろなどと騒ぐ。以前のベ平連時代には警察に守ってもらって集会をすることなど考えたこともなかったが、それもよかろうと警察に連絡した。警察は、事前に連絡をもらわなければ自分たちも出ていけない、右翼になんで来てるんやと言われたらこまるので、事前連絡がほしいとのこと。妙に納得したりした。考えたら、われわれも税金を払っている、われわれも守られてもいいんだ・・・・
                       集会場の入り口でにらみあいとなった。怒号も飛ぶ。すると刑事が、「飛田君、あんたがちょっと殴られたらすぐ彼らを逮捕できてこの場は収まるんですよ」と言う。さらに納得したが、そのようなことになるまえに収束した。よかった。
                      会場の王子ギャラリーに右翼の街宣車も来ていたので、刑事がときどきみまわりに来た。その刑事が、展示会のボランティアメンバーのひとりに、「飛田さんは尾行を巻くのが上手だったんですよ」といった。あとで聞いてびっくりした。七〇年代前半、当時ですでに二〇年も前の話である。ベ平連時代、そういえば、ホームまでつけてきた刑事に電車に乗るとみせかけて乗らない、乗らないとみせかけて乗ったこともあった。いやいや、警察は引き継ぎがうまくいっているのか、実際その刑事が尾行していたのか知らないが、すごい情報能力だ。絵画展仲間に、飛田がこわいやつだと言いたかったのかもしれないが・・・
                       四回目の逮捕は、今のところない・・・

                      ■あとがき

                       この小さな冊子にあとがきはいらないと思う。だが、まえがき、あとがきのない本はだめだというのが私の考えだ。なので、あとがきを書くことにする。
                       この冊子はコロナ自粛が作らせてくれた。私は、昨年九月に神戸学生青年センターを退職した。一九七八年に就職したので、四〇年以上働いたことになる。「逮捕歴」があっても雇ってくれたセンターに感謝している。七〇年代、逮捕歴三回まではOKという新聞社があり、それを信じて受験し就職した先輩もいる。でも世の中は逮捕歴にきびしい時代でもあった。
                       私は、自粛中でも時間をもてあますことはなかった。オカリナを吹いたり、六甲山に登ったり、「男はつらいよ」を全部観たり忙しかった。それでも、このようなものを書く時間もあった。ちょうどこの三月に『むくげ通信』が三〇〇号となり、総目次とともに記念号をだした。一九七一年スタートのむくげの会なのでほぼ五〇年だ。いろいろ思い出すこともあり、このような冊子も作りたいと思ったのだ。
                       私は最近、奥付のところにあるような本を出した。センター出版部、むくげ出版の編集者としていろんな本を出してきたが、自分の本を出してみようと思ったのだ。でも、それも一段落した。でも、まだなんとなく出したいのがあるのだ。
                       幸いセンターに最新式の印刷機がある。原稿さえ書けば印刷製本を自動でしてくれる。この印刷機でこの冊子をつくることにした。まずは五〇部、あとは一冊からでも増刷できる気軽さが気にいっている。
                       またなにか出すようなことがあるかもしれない。そのときは、またよろしく・・・・

                        二〇二〇年六月二五日 飛田雄一

                      著者 飛田雄一(ひだ ゆういち)
                      一九五〇年神戸市生まれ。神戸学生青年センター理事長、むくげの会会員など。著書に『日帝下の朝鮮農民運動』(未来社、一九九一年九月)、『現場を歩く 現場を綴る―日本・コリア・キリスト教―』(かんよう出版 二〇一六年六月)、『心に刻み、石に刻む―在日コリアンと私―』(三一書房、二〇一六年一一月)、『旅行作家な気分―コリア・中国から中央アジアへの旅―』(合同出版、二〇一七年一月)、『再論 朝鮮人強制連行』(三一書房、二〇一八年一一月)『時事エッセイ―コリア・コリアン・イルボン(日本)―』(むくげの会、二〇一九年五月)、『阪神淡路大震災、そのとき、外国人は?』(神戸学生青年センター出版部、二〇一九年七月)ほか。

                      <奥付>
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                      コロナ自粛エッセイ
                      極私的 ベ平連神戸事件顛末の記
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                      二〇二〇年七月一日発行
                      著者・発行者 飛田雄一 hida@ksyc.jp
                      神戸市灘区鶴甲四丁目三の一八の二〇五
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                      飛田雄一  HIDA Yuichi    神戸学生青年センター 
                      http://ksyc.jp  hida@ksyc.jp
                      Kobe Student Youth Center
                      〒657-0064 神戸市灘区山田町3-1-1
                      3-1-1Yamada-cho, Nada-ku, Kobe ,657-0064 JAPAN
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