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碓井敏正・大西広編『成長国家から成熟社会へ―福祉国家論を越えて―』

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    評価:
    碓井 敏正,大西 広,?橋 肇,石田 好江,浅見 和彦,神谷 章生
    花伝社
    ¥ 1,836
    (2014-10-02)

    Okabyです。
    経済科学基礎研究所のメンバーが出した碓井敏正・大西広編『成長国家から成熟社会へ―福祉国家論を越えて―』では、「成長国家」、そのバリエーションとしての「福祉国家」をも超えた対案としての「成熟社会」が展望されています。
    「成熟社会」とはなにか?
    「はじめに」あるように、それは、
    資本主義社会の最終段階としてのゼロ成長社会の実現>であり、<目標概念としての「成熟社会」>だということです。(8ぺージ)
     本書で強調したいことは以下のことだそうです。
    ================
     社会の成熟とは、一定の経済水準を条件に、ひとつの体制の中で積極的要素が深化することを意味している。
    具体的には、人々の権利観や民主主義観といったさまざまな価値観が深化することにより、人々が国家や企業(組織)による管理や依存を嫌い、自らの人生を自らが決定する意識(参加)が高まる状態を指している。
    本書のサブタイトルを「福祉国家論を越えて」としたのは、一部左派知識人による新福祉国家論を含め、国家と市民社会に関わるこのような変化をとらえず、その点で、従来型理解を超えていないことへの批判の意味を込めているからである。
    なお、このような過去の福祉国家論はすべて経済成長を前提として成り立ってきたものである。
    その条件が消滅した今、ゼロ成長経済下でもとめられているのは、国家に依存しない「社会」内部の諸力の成熟である。
    ================
    (9ページ)
    ゼロ成長を所与にした社会の構想という点では、水野和夫さんの資本主義の危機としての「成長なき経済」、平沢克美さんの「移行期的混乱」、藻谷浩介さんの「里山資本主義」
    などの主張と接点がかなりありそうです。ラトゥーシュの「脱成長」論もそうでしょうか。
     
    本書の問題提起にかぎって、主に重要な論文を二つ紹介します。
     
    まず、経済学者の大西広さんの「第2章 成長経済下の政権交代と右傾化―アベノミクスへの対抗軸―」。ここではアベノミクスの問題点として、インフレターゲット政策を根本から誤りだと批判しています。
       ↓
    =================
     この経済政策は経済理論的には「特異な貨幣的ケインズ主義」とでも言えるものになっている。ということはこういうことである。
     ケインズ主義的貨幣政策は一般的には、
       貨幣供給増 → 利子率の引き下げ → 投資増=総需要増
     という政策体系である。
    が、この説明のとおり「利子率の引き下げ」が必要なのであるが、現在のようにそもそも「ゼロ金利」(これはゼロ成長の帰結である)であればその実現は不可能である。もちろん、(「第二の矢」の公共事業拡大で多少はやっているが)前述のような大規模な財政赤字の累積のもとでは、「財政支出の拡大」も基本的には無理である。そして、このために結局安倍首相が目標としたのは、貨幣供給増によるインフレの形成とそれによる実質金利の引き下げであった。
      すなわち、
       貨幣供給増 → インフレ → 実質金利の引き下げ
      である。
    この場合、名目金利がほぼゼロであっても、実質金利は<名目金利―インフレ率>だるからゼロ以下まで下げられる。それをすれば投資が刺激されて総需要が拡大する、というものであった。これは「実質金利をマイナスとする」という禁じ手(お金を借りる方が貸すより利益を得るという逆転した状況の創出)を使うもので、そもそも危ない政策であるが、しかし、究極のケインズ主義という意味では、小泉政権時の新自由主義政策ではないことが重要である。
     ただし、こうしてめざされた「インフレ」も、じつのところ円安による輸入財価格の上昇をもたらした有害極まりないものとなっている。アベノミクスの無規律な金融緩和が日本円の対外的信用を落とした結果、年率にして約二〇%の円安が起きたが、それがそのまま輸入財価格の二〇%の上昇をもたらしているからである。
    =================
    3436ページ)
     
     このように松尾匡さんらリフレ派にダメ出しくらわしています。反論は多々あるでしょうが、これだけ読めば、左派の常套的な批判としてなるほどとは思うのですが。
    しかし、「実質金利をマイナスとする」という禁じ手(お金を借りる方が貸すより利益を得るという逆転した状況の創出)がなんで<危ない政策>なのかよくわからないし、
    円安になったのは、円の「対外信用」が下落した結果なのか?むしろ、インフレ2%目標という「規律」ある金融緩和の結果として円安になっただけで、円の「信用」うんぬんは関係ないのではないでしょうか?そこらへん、どういう理屈でそんなことが言われるのか?そしてそれは問題ないならなぜなのか教えてほしいところです。
     
    それで、大西さんは他方で「新福祉国家」論も批判しています。
    (旧来の社民主義や「バラマキ」をした民主党政権も)
       ↓
    =================
     財政問題の危機認識が、国を問わず一般に「左派」知識人の間で極めて弱い。日本においても、渡辺治氏など新自由主義を批判し「新福祉国家」を主張する潮流は財源問題を軽視し、まともな政策研究者の議論の対象とはなりえていない。社会保障費の国家負担の上昇は財政構造の根本的な見直しを待ったなしの課題としており、そのシビアな解決策の提示なしには、たとえば消費増税論に勝てないだろう。よく言われる財政赤字容認論は日本国債の買い手が日本国民であるから大丈夫という物であるが、いかに「日本国民」であろうと、借りたお金を返せないとなると国債の新規発行が不可能となる。アメリカで「財政の崖」と言われた状況の再現となる。こうして現状では財政赤字容認論は有効な政権構想となりえない。
     したがって、もちろん、アベノミクスのインフレ政策、円安政策は即刻やめさせなければならないが、それと同時にムダな公共投資の復活や大企業減税の停止がなされなければならない。円安政策の停止は輸出大企業にとっての不利益となろうが、これら大企業は円高による国民利益を通じた消費=内需拡大こそを利益とする体質に自らを転換しなければならない。それがゼロ成長を前提としたあるべき経済のあり方である。
    =================
    4041ページ)
     
     これだとむしろ新自由主義派の財政均衡論と同じのように思えますが。
    円高の方がいいんだって。
    内需拡大は大事だろうけど、ゼロ成長を前提に財政政策も「バラマキ」やめろっていってどうやって経済良くするんでしょうか?
    (共産党ですら衆議院選挙の政策で年2%のGDP成長率を目標にしているのに)
     
    経済成長の是非と財源論、財源論を裏付ける財政赤字の評価について、リフレ派、新福祉国家派らと大西さんら「成熟社会」派とは深い溝があるようですね。むしろ、「成熟社会」派は新自由主義派のとくに「小さな政府」論と親和性があるように見えます。
     その点では、政治学者の神谷章生さんの「第8 成熟社会に向かう地方自治の条件」での提案とはニュアンスが違うように思いますが、ここでは割愛します。
     
    で、この「成熟社会」は「社会主義社会」だそうです。
       ↓
    ==================
     本章筆者は「資本蓄積のための社会」をもって「資本主義社会」と定義しているから、こうして「資本蓄積が不要となった社会」は定義的に「資本主義社会」ではなく、「資本主義後の社会」でなければならない。つまり、ここで我々が今これ以上の資本蓄積を辞めさせようとしているのは「資本主義」という社会体制自体を辞めさせようとしていることになるのである。
     この意味で本書が「成熟社会」と呼ぶ社会は「資本主義後の社会」=「社会主義社会」ということができる。
    ==================
    45ページ)
     
     うーん、なんか強引な定義のような・・・もちろん、成熟社会に向けて社会的対立が起きることは述べているけど、社会主義社会って「階級社会」が消滅した社会、その前段階として労働者階級が権力を握った社会だったのでは?なんか階級関係を無視した、生産力史観のにおいがしますねえ。
    (なんでわたしにオールド・ボルシェビキなこと言わせんのよ!)
     
     さて、次は哲学者の薄井敏正さん「第3章 成熟社会と革新運動」
     ここでの運動論はとても重要な提案です。
       ↓
    ===================
     成熟社会における社会運動は、従来型の革新運動や市民運動とは異なる論理を求めている。人権と相互尊重、熟議を重視する民主的決定は、課題への人々の粘り強く責任のある関わり抜きにあり得ない。一方通行的で権威的な上意下達型の運動論、一人ひとりの個性を軽視した動員型運動は成長時代のものである。
     上意下達の運動論は、下位のものの義務感や忠誠心に依拠しているが、この種の動機によって支えられる運動は長続きしない。自らの意志と感性が尊重される個人主義社会では、政治へのかかわりは、かつてのような団体、組織を通したものだけでなく、反原発運動に典型的なように、個人が自発的に結集する形が主となっていくであろう。その意味では、中央指令型、啓蒙型運動論は社会の成熟化の中で変容を迫られており、個人の自発性や創意が活かされるような、新たな運動論と組織論が求められている。
     一方で、偶発的で持続性に欠けた市民運動の弱点も克服されねばならない。いかなる組織、運動であれ、効果的な課題達成のために、集権的性格が避けられないことも事実である。課題の解決は最終的には国家の政策変更、すなわち政治的な決定によらざるを得ないからである。その点では、革新政党と社会運動との生産的な接合が課題となっている。両者の有機的関連のうちにこそ、成熟社会の運動論の姿がある。
     運動論だけでなく、運動を導く知のあり方も問われている。
    ・・・・・
    専門知の信用失墜の原因は、原子力ムラに代表されるように、知識が特定集団の利益の道具となっていること、さらにはアカデミズムの世界が短期的な成果を求めるタコつぼ型専門主義に陥り、現実の変化やマクロ的な認識を軽視した点にある。
    かつて夏目漱石は「玄人(専門家)の認識は局部に捕らわれ、全体的輪郭を離れる傾向がある」と批判したが、専門主義の弊害が科学技術の時代に、大きな災厄となってわれわれを襲っているのである。
     このような時代には、むしろ素人のとらわれない感覚と、ネットなど集合知が重要な役割を演じることになる。もともとインターネット(SNS)にはタテの知識の伝達に対して、ヨコの伝達を促進する民主的機能があった。もちろん集合知が機能するには、人々の意見が画一的ではなく、多様であることが必須の条件となる。他方で、集合知が真実へと至るには、上記のような弊害から解放された専門知との接合が不可欠である。両者の接合の内にこそ、知のあるべき姿がある。
    ・・・・・・・
     知の成熟を具体化し、新しい運動論を切り拓く上で、どうしても問題にしなければならないのが、組織固有の矛盾である。われわれに求められているのは、従来の成長型運動論の限界を乗り越え、成熟社会にふさわしい組織論を構築することである。
     護憲運動に限らず、課題ごとの政治的共同行動や統一の形成を阻害する最大の要因は、組織が固有の病理にとらわれやすい点にある。われわれは革新運動と革新組織は成熟社会の現実を踏まえ、そこから学ぶときにのみ、再生の可能性があると考えている
    ===================
    6971ページ)
     
     今回の総選挙で昨年の参議院選挙に続いて共産党が議席を大幅増しそうな状況になっているのは、かつての「前衛党」スタイルから脱却し、様々な運動の「後衛的」サポートにまわることで人々の自発性自主性を尊重するスタイルに変わってきていることや、そうした信頼関係からSNSなどネットなどで勝手連的な支援の輪が広がっている、ということに明らかなように、それを理論的に整理すれば、薄井さんの言われている通りでしょう。共産党にはさらなる自己刷新を期待したいし、他党も含めて諸々の革新的運動の再生にとっても薄井さんの問題提起は傾聴に値するでしょう。
     かくゆう、どこの政党や団体などからも自立して「社会学習」の一点でネットワークをつくっている市民社会フォーラムも、玄人・素人、専門や所属の違いを超えて「接合」し、さまざまな社会的課題について自由に意見交流する「集合知」の場にさせていただいています。
     
     
     ただ、薄井さんの論考で気になるところがあります。
     古賀茂明氏による政党の配置図を紹介し、共産党、社民党など革新派は、「ハト派」で「大きな政府派」とされるが、成熟社会における革新勢力は、「ハト派」でありながら「小さな政府」派へと立ち位置を変化させていくことが必要だというところです。(7778ページ)
     成熟した「社会」主義だからこそ、「国家」主義に傾かない方向だということなのでしょうが、そこの整理はもっとよくよく考える必要があると愚考します。小泉旋風以来、思想・政治・経済で新自由主義が席巻してきたのには、社会構造が大きく転換しているからでしょう。その転換は「小さな政府」志向だと読み込んだ(というよりも「読み間違えた」)新自由主義右派に左派はヘゲモニーをとられていきました。
    左派がヘゲモニーを奪還するには社会の転換に対応して「小さな政府」で行くべきなのか?いや、それは転換の方向を読み違えているのではないか?むしろ「小さな政府」志向の市民運動や諸政党は新自由主義に絡めとられたり、それを補完する役割を果たしてはいなかったか?それは財源論や国家論をめぐってもミスリードしていた、そして今もそうなっているからではないか?
     そこらへんは松尾匡さんの新著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』がとても参考になりますが、それはまたのお楽しみで。
     ともあれ、ゼロ成長または低成長の時代、成熟した経済大国たる先進国日本ですすむべき問題提起として、『成長国家から成熟社会へ―福祉国家論を越えて―』は刺激的で勉強になりました。

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